名曲名盤縁起 アラウのバッハ演奏から発散された明るい香気 J.S.バッハ〜パルティータ第2番より「サラバンド」

南米出身の名ピアニスト・アラウ没 ― 1991年6月9日

FR PHIL 412 099-1 クラウディオ・アラウ リスト・超… 誰が決めたかは定かで無いが、「南米生まれの3大ピアニスト」がいる。アルゼンチンのマルタ・アルゲリッチとダニエル・バレンボイム、そして1991年の今日他界したチリのクラウディオ・アラウだ。アラウは十代前半でヨーロッパに渡り、ベルリンの音楽院で才能を磨いたせいか、大得意にしたリスト以外では、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスと並ぶドイツ正統派のレパートリーに、ドイツ人以上にドイツ的な演奏を聴かせた。

パルティータ(Partita)【1726~31年作曲】
 この作品は「イギリス組曲」や「フランス組曲」と同様、クラヴィーアのための大組曲集である。1726年から作曲され、個別に出版してきた作品を1731年にまとめて出版したと言われているがはっきりとは分かっていない。この作品は傑作として名高い上に演奏難度が高く、出版当時から多くの賞賛を得続けてきた。
 例えば19世紀のバッハ研究の音楽学者であったフォルケルも「美しく、響き豊かで表情に富み、いつまでも新鮮さを失わない」と賞賛している。ちなみにパルティータとは組曲とほぼ同じ意味であるが、バッハ自身は組曲よりもパルティータの方がより自由度が高いものと考えていたようである。
NL PHIL 6747 003 クラウディオ・アラウ ショパン・ピ… アラウが最後に録音したのは、ドイツ音楽の開祖といえる大バッハの《パルティータ集》だったので、彼の白鳥の歌として第2番の「サラバンド」を聴こう(YouTube動画の13分51秒から)。バッハのパルティータは性格の異なる舞曲を幾つか並べた組曲形式の音楽。この「サラバンド」は荘重な音楽だが、どこかラテン的な趣がある。アラウの演奏から明るくほのかな香気が立ち上るのは、南米人ならではのリリシズムのせいであろう。

ピアノロール、SP、LPレコード、CDと70年近くにわたって録音活動を続けてきた巨匠アラウが88歳で世を去る2ヶ月前に収録した最後の録音。演奏活動の最後にバッハをとりあげた意味も大きいと思う。しかも「パルティータ」は初録音だったもので、自在に語られたバッハだ。

 これを聴くと、アラウはもう半分「天国」に足を踏み入れていると思えて仕方ありません。来日演奏会にも奥様同伴していたクラウディオ・アラウ。その奥様に先立たれて、さぞかし失意の底にあられたのではないでしょうか、このパルティータの演奏はアラウがバッハを弾きたくなったと云われています。グレン・グールドに先立つ1942年に、「ゴールドベルグ変奏曲」をモダン・ピアノで最初に録音したアラウですが、その後も少数のバッハ作品を録音したが《パルティータ》は手を染めなかった。それが88歳死の2ヵ月前に突然「バッハを弾きたい」とこの録音に至った。
 テンポの安定性とか技術的な面で衰えてはいるが、彼の弾くバッハは、自身の生きた80余年を振り返るように語りかける。揺らぐテンポは、すでに自在を超えて融通無碍の境地であり、一閃突き抜けるような白鳥の最後の声、アラウのそれは静かな優しさと諦観に満ちている。誰のものより心に沁みて、なかでも2番は涙を堪えないでは聴き続けられない。最後にバッハを録音できたアラウは、半ば神そのものになりかけていて、きっと心置きなく旅立たれただろう。

Johann Sebastian Bach

(1685.3.21 – 1750.7.28 ドイツ)
Johann Sebastian Bach ドイツ最大の作曲家のひとり。数代に渡る音楽家の家系に生まれた。息子達も著名な作曲家となったので区別するために『大バッハ』と呼ばれる。
 終生敬虔なプロテスタントの信仰を貫き、ケーテン候の楽長を務めた期間を除いては教会のオルガニストや合唱長として宗教音楽やオルガンの名曲を書き続けた。

 バッハは“音楽の父”と呼ばれるが、それはバロック時代の後期に作曲活動を持ち、対位法の音楽ポリフォニーと和声音楽ホモフォニーの交替期にあった彼が、対位法の技法を集大成し、最高の完成者であったからである。
 晩年はライプツィヒのトマス教会の合唱長を27年間勤め、『フーガの技法』を絶筆として65歳の生涯を閉じた。
 全作品は1080曲に及び、いずれの作品も最高の完成度を示すが、代表作としては「管弦楽組曲」4曲、「ブランデンブルク協奏曲」6曲、ヴァイオリンやハープシコードのための協奏曲、「平均律ピアノ曲集」2巻、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」6曲、「無伴奏チェロ組曲」6曲、多数の「カンタータ」、「ミサ曲ロ短調」、「マタイ受難曲」、などがある。

勤勉で行動派、感情をコントロールできる芸術家で、その後の作曲家にとってバッハの背中は父親と重なるものだったことだろう。

 バッハは、音楽界で最も重要な人物であると言えるだろう。それは例えばモーツァルトやワーグナーなどバッハ以降の作曲家なら誰もが、バッハを学んだことからも確かなことだと思われる。ではバッハは何を成し遂げた人物なのか? … 彼は、一言で言えば18世紀まで続いていた音楽をまとめて、完成させた人物である。特に、ポリフォニー音楽を完成させたことで有名である。
 ポリフォニーとは、複旋律音楽のことで、左手と右手、さらには指だけで独立した旋律を作るものであり、これは対位法と呼ばれる技法を使って作曲するものであった。バッハ以前は形式的で教科書のように利用するものであった対位法、当然形式ばった曲となっていたものをバッハは柔軟に対位法を利用することで、生き生きとした曲を生み出したのである。その意味では当時、音楽の先端を行く人物であったともいえる。
 次にバッハの人柄であるが、彼はその業績にふさわしい堅実で勤勉な性格の持ち主であった。例えば、彼の住居の移転はそのまま職場の変更となっている。単なる引越しのような無駄をしない人物であった。また、彼は死ぬまで常に宮廷音楽家や教会オルガニストなど定職を持っていた。職は何度も変わったが仕事を辞めるときには、ほとんどの場合次の職場は決まっていたのである。突発的に辞めることはなかったと言える。
 さらにお金の使い方も細かく書き残しており、これはバッハ研究の大きな助けとなっている。作曲数も他の作曲家とは比べ物にならない量である。もちろん、教会オルガニストとして活動していたことも作曲数に関係してくる(ミサなどのために毎回作曲する必要があるため)が、彼の作品は1000以上もあり、群を抜いているといってよいだろう。そして作曲年から見ると生涯を通じて作曲し続けたことが分かるが、ここからも彼の勤勉さが分かるだろう。また、彼の死の原因となった白内障が、少年時代の勉強のし過ぎから来たといわれている。バッハ本人も、なぜそれほどの技術を身につけることが出来たのか、と聞かれ、「勤勉だったからです。私と同じくらい勤勉であれば、誰でも私と同じようになれるでしょう」と語ったという。
 バッハは勤勉なだけでなく、好奇心も強く、古いものにこだわらない自由な発想も持ち合わせていたといわれている。例えば、彼は有名なオルガニストや外国の音楽家がやってくると、必ずそれを見に行き、新しいことを知ろうとした。少年時代は有名なオルガニストが来ると聞いて3日間歩いて見に行ったという。また、新しい楽器に対しても、彼は好奇心旺盛で、彼のいる地方で新しいオルガンが作られると、彼は必ずといっていいほど試演に行った。バッハの先進性は楽譜にも表れている。バッハ以前は楽譜と言うものが無かった。それは主に即興演奏であったことなどが理由だが、バッハの作品の多くが残っていることから分かるように、最先端の記譜法も利用したのである。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 略歴

1685年
ドイツ、アイゼナハで生まれる
1692年
教会のラテン語学校に入学、教会合唱団に入る
1695年
兄のいるオールドルフに向かう
1700年
ミカエル学校に入学し、器楽(特にオルガン)を学ぶ
1706年
作曲活動を本格的に開始
1708年
ヴァイマール宮廷で「宮廷音楽家兼オルガニスト」の地位につく
1717年
ケーテンに移り、ケーテンの宮廷楽師長になる
1736年
ザクセン候宮廷作曲家も兼任する
1750年
死去

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