§母との思い出を増やすコロナ禍 ― アナログレコードの文化を守る OYAG SOUND 店主のノート
/車椅子 ― 南野勝
私と同居する母は今年89歳になる、父は10年以上前に亡くなった。
その母も数年前に脳梗塞を患い後遺症で杖が必要になった。それからは認知症も進んだ気がする。
今は介護施設のディサービスに通い穏やかに過ごしているが、ディサービスに行くことを学校に行くと言う。
時々今日は遠足だと嬉しそうに話し、天気の悪い日は遠足があるのにと残念がる。
はて、そんなに遠足が続くのか?
きっと退屈でディサービスの日を遠足と思い込んでいるのだろう。
何か可哀想な気がしてどこかに連れて行ってあげようと思うのだが、母を歩かせるとやはり足が頼りなく、転倒すると骨折の心配がある。
さっそくお願いして車椅子を玄関口に置いてみる。
母は誰の車椅子だ、と人ごとのように言う。
「お母さんのだよ」、と説明してもピンとこないようで、私はそんなものは必要ないと言う。
自分は何でもできると思っている節があるがそれが危ない。
おそらく母はここ2年ほどこの風景を見ていないはずで、感想を聞いてみると「さあ・・・」というが、その表情は明るい。
翌日。玄関の車椅子を見つけて、やはり誰のだと聞いてきた。また昨日と同じやり取りがあった。
もう桜の季節である。
おそらく母は桜を見ても翌日まで覚えていないだろう、それも良いかと思う。
そうやって母との思い出を増やすコロナ禍である。